トクマ亭?読書・社会科学・・・
このブログは、僕が読んだ本の感想をはじめとして、社会科学について、現代の政治や経済についての意見等を書いていくつもりです。日記に関する意見などは、どんどんコメントしてください。
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司馬遼太郎 『竜馬がゆく 五』
今回は、「足踏み状態」の竜馬を描く、第五巻です。

防長二州
池田屋の変
流燈
変転
菊の枕
摂津神戸村
薩と長
元治の暮

今回は、竜馬が西郷など、薩摩藩の人々と出会う、大切な巻です。
まず、薩摩前藩主 島津斉彬についての説明部分。
「先代の藩主島津斉彬は時勢にとびぬけた意見のもちぬしで、その遺論はなお薩摩藩の勤王グループの間で語り継がれている。斉彬は六年前急死するまで薩摩藩を近代産業国家に改造することに専念し、鹿児島城外の磯の別邸内に「集成館」という工場を建て、旋盤や化学工場設備を置き、鉄砲火薬やガラス製品などを生産した。それだけでなく、いまにシナ三百余州の地図を貼った大屏風を立てまわし、「シナは早晩、外国勢のために崩れる。そうなれば日本は孤立する。危機これ以上のものはない。」といい、「シナが亡国となる以前に、日本は欧米の機先を制して、九州諸藩は安南、南洋諸島に進出して占領し、奥州諸藩は北進し、満州、蒙古、北シナを攻略し、シナ大陸を前後から包囲して外国勢力をはじき出さねば、日本はつぶされてしまうだろう」といった。」
というような、昭和の日本軍の構想をあたかも言い当てるような考えを持っていた。驚くべきことだと思う。
次に西郷吉之助(隆盛)について。まず、その政治思想を筆者は次のように述べている。
「外国とつきあうには、独立の体を定め、外国との約束は一々履行し、一事たりとも信義を誤り、礼節を失ってはいけない。もしかれが条約外のことで横車を押してくれば、条理をよく説ききかせてやり、少しも動揺恐くしてはいけない。そのさいもし、戦の一字をおそれ、まげて彼の説に従えばついに国が崩れる。右のごとく外国と交渉するときには道をもってし、道に斃れても(戦争して敗れても)後悔はしないという覚悟でやらねばならぬ。」
西郷については、次のような逸話もある。
ある日、竜馬は初めて西郷を訪ねた。思いがけず、西郷は竜馬を待たせることになってしまったが、行ってみると、竜馬は藩邸の庭で鈴虫をとっていた。これを見て、西郷は、竜馬のことを大物だと思った。そして、また後日、竜馬が薩摩藩邸を訪ねると、以前とった鈴虫をまだ飼っていてくれた。そのことを話すと、実は、竜馬がとった鈴虫は鈴虫はすぐに死んで、その後、竜馬のために新たにとって世話をしていたことを話してくれた。このことから、竜馬は西郷という人の誠実さを感じ、ますます西郷を信じるようになった。
こうした話からも、西郷の人柄がよくわかる。
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おすすめの本
3月26日の新聞に乗ってた、文庫本の売上トップテン(3/17?3/23まで東京・三省堂神保町本店)

1、水滸伝(18)                    北方謙三
2、思考の整理学                  外山滋比古
3、本は10冊同時に読め!             成毛眞
4、昭和侠盗伝 天切り松闇がたり(4)      浅田次郎
5、死神の精度                    伊坂幸太郎
6、四畳半神話体系                 森見登美彦
7、本を読む本                    モーティマー・J・アドラー
8、ながい旅                     大岡昇平
9、イニシエーション・ラブ              乾くるみ
10、夏の名残りの薔薇               恩田陸

というものですが、なぜこれを取り上げたかというと、このトップテンにはぜひともお進めしたい本が3冊もあったからです。

ひとつめ、『7、本を読む本    モーティマー・J・アドラー』
これは、その名の通り、本をいかにして読むべきかを書いた本。この本は、最近出版されたものではなく、大分昔に、アメリカの哲学科の大学教授らによって書かれた。それだけでも、いかに人気のあった本かよくわかると思う。名前のとおり、how to本だが、日本のhowto本とはちがい、内容もしっかりしている。本の読み方に悩んでいる人は、ぜひとも一読を勧めたい。むしろ、一家に一冊といった感じ。

ふたつめ、『2、思考の整理学   外山滋比古
言わずと知れた、外山滋比古の新巻。以前、彼の、知的創造のヒントを読んだが、何というか、知的で面白い。教養的な感覚を身につけられる(?)本。図書館などで借りて読んでみるといいと思う。

みっつめ、『1、水滸伝(18)    北方謙三
中国四大奇書のひとつ「水滸伝」を北方氏が、紀伝体から編年体へと編纂し、彼独自の書き方で、完成させた、「志」の本。梁山泊に集まる豪傑と、それに相対する巨大なる国・宋。その戦いは、熾烈を極める。戦いの流れだけではなく、そこに登場する人物らの心情にも注目してもらいたい。彼らの心に翻るは、「替天行道」の旗。これを、読んで是非熱くなってほしい。そして、自らの心の中に、「志」を持つ人が多くなるといいと思う。

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The way of thinking about 官僚
官僚について、別にきちっと考えて、こう思うとかいうことでは、ないんですが、
友人と話したということもあって、少し考えを述べようかと思います。


まず、官僚。一般的には、やはりよく思われていないように思う。
それには、大きく分けて、二つの原因があるだろう。
ひとつは、感情的なもの官僚だけが、巨額の報酬を得ることに怒りを覚える人とかには、こういう観点から考えていることが多いのではないか。うらやましい。と言えば、少し違うものになるかもしれないが、嫉妬的な感情を持ち合わせている場合である。
いまひとつは、実利的なもの官僚の非効率性、官僚による無駄遣い。こうした問題について、いわば、実利的に見て、「これは、よくない」と感じている人。

こうした二つの見方による、官僚批判があるのだと思う。もちろん、多くの場合は、この二つの側面が混ざり合っているのであって、官僚について話すとき、これを混ぜてしまうのは、やはりいけない。

僕の考えでは、一つ目の、「感情的官僚批判」は排除されるべきだと思う。人は、やはり感情の動物であって、そうした感情を持ち合わせてしまうのは、致し方ないと思う。
官僚というのは、いつの時代からあったのか。現在の直接の系統をたどると、それは明治以降ということになるのだろう。しかし、実は、それよりももっと昔、たとえば平安朝の時代から、官僚に似た役割を持つ人々はいたのではないかと推測する。そういう前提に立った時に、我々は、「感情的官僚批判」をただ個人の感情という風に考えてしまうのではなく、歴史的な背景から考えてしかるべきだろう。
こうした歴史的背景をふまえて、批判すべきであると(自戒的に)考える。もしかしたら、そこには、人々の感情という名で隠れた歴史的真実が隠れているかもしれないから。
しかし、それを踏まえた上でも、やはり感情的官僚批判は排除されるべきであろうと思う。感情論からは、何も生まれない。むしろ、議論を混乱に陥れるだけだと思うからだ。(こういう観点から考えると、ただ感情的に、官僚を擁護することがあるとすれば、それも問題ということになる。)

さて二つ目。「実利的官僚批判」について。いま、僕が考えつく限りでは、大きく分けて、二つの観点がある。「財政的観点(官僚による無駄遣い)」「仕事の効率性の観点(成果主義論など)」
まず、一つ目の「財政的観点」から官僚を考えると、どうしても、最初に思いつくのは、TVなどで言われている無駄遣いの構図である。しかし、ここで、よく考えなければいけないのは、日本国の全予算規模から考えて、無駄使いされているのは、何%かということだ。それを考えると、官僚全体が無駄遣いを(しようと)しているのではないことがわかる。一部の人間のしていることである可能性もあるのだ(もちろんこれは、組織的に行われていることもあろう。我々は、その事例をいくつか知っている)。こうしたことを考えても、現在の日本の財政事情は危機的であり、更なる緊縮財政が求められよう。それにも関わらず……という批判は的を得ているように思う。
もうひとつ、「仕事の効率性の観点」について。これは、民間企業という、競争の激しい分野で働いている人たちから見れば、官僚が働いている官庁組織全体の仕事の効率が悪いと感じるのだろうと思う。これについては、少し、意見が言いにくいところがある。官僚の仕事というのは、(もちろん、競争を導入することで効率的になるところもあろうが、)競争ではかりにくい、成果をはかりにくい、ものであることが多いからである。その点は、考慮しなければならない。


さて、ここまで、官僚批判を見てきましたが、これに対して、ひとつ、くさびを打ち込まなければなりません。それは官僚による恩恵を忘れるな、ということです。
もし、この日本に「官僚」がいなかったらどうなるか。ある人に言わせれば、「とうに日本人は、滅んでいる」です。現在の政治状況から見てもわかるように、政治を政治家だけに任せておくのは、非常に不安なことです。政治家は、選挙という、短期的な目標を基準に行動するからです。もっと、短期的な選択をする集団がいます。それは「民衆」です。個人一人一人を考えると、長期的な考え方をもつ人もいます。相当量いるでしょう。しかし、それが「民衆」という集団になると、これは、短期的な視野をもった集団に変貌してしまいます。(僕は、日本人は、まだこの傾向は薄いのではないかという期待を胸に抱いています。諸外国と比べると、諸外国は、政治の部分がしっかりしているので、長期的な思考を持っているといえますが、政治がしっかりしていない日本では、民衆がある程度、長期的な考え方を選択しているような気がするのです)
しかし、官僚は、人数が少なく、その一人一人が、(東大出身者が多いことからもわかるように、)まさに「頭脳」と言わしめるような能力をもっています。こうした存在なしに、今の我々の繁栄はないと言い切れるでしょう。人は、目に見えないもの、あたりまえなものに感謝を忘れる傾向があります。しかし、これについては、よく考える必要があります。

だから、先に「仕事の効率性の観点」からの「実利的官僚批判」のところで述べましたが、より効率的にしことがしたい、もっと結果を認めてほしい、と思っているのは、ほかならぬ官僚自身なのではないでしょうか。思っているけど、できない。それが日本的な組織の恐ろしいところです。

幕末、明治維新にいたる、大事業を成し遂げてきたのは、主に、外様藩の下級藩士でした。徳川率いる旗本八万騎、幕府閣僚、大名、上級藩士。。。こうした階級からは(例外的に何人か傑物がでましたが、)ほとんど「人物」は排出されませんでした。それは、武士であるにもかかわらず、暖衣飽食に明け暮れていたからです。
この事情は、現在でもいうことができると思います。暖衣飽食に明け暮れて、「危機迫られる」ことのない現代では、「人物」が出てくることは望み薄なのかもしれません。それは、官僚の世界では、最もよくいえることだと思うのです。民間には、競争というものが、否が応でもついてきます。戦争のない世界、今後は、こうしたところから、「人物」はうまれてくるのかもしれません。

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司馬遼太郎 『竜馬がゆく 四』
今回は、2・3の引用を

「幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。 国内的な、または国際的な諸条件が万位一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行きついた。(中略)当時の長州藩は、正気で文明世界と決戦しうると考えていた。攘夷戦争という気分はもうこの半にあっては宗教戦争といっていいようなもので、勝敗、利害の判断をこえていた。長州藩過激分子の状態は、フライパンにのせられた生きたアヒルに似ている。いたずらに狂躁している。この狂躁は、当然、列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制と列強それぞれが日本と戦争できない国内事情にあったことが、さいわいした。さらにいえば、当時のアジア諸国とはちがった、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして、日本との戦争の前途に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。……海戦、海陸戦では勝てても、、もし内陸戦になった場合、サムライのゲリラ活動には手を焼くであろう。とおもったのだ。しかも、地理的には、極東の島国である。万里の波濤をこえて日本まで兵員、弾薬、食糧の補給をしなければならない。当時の船は、いかに蒸気船といっても石炭を焚くだけでは二十日の航海能力しかもたなかった。あとは帆走である。大規模な補給活動ができるはずがない。だから、列強は手びかえた。いまひとつは、これはこの物語のずっと後でのべねばならないが、高杉晋作ら長州藩指導者の、天才としかいいようのない利口さが、この危険を救った。いずれにせよ、長州藩は幕末における現状打破のダイナマイトであった。この暴走は偶然右のりゆうで拾いものの成功をしたが、-----これでいける。 という無知な自信をその後の日本人の子孫にあたえた。とくに長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した。昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断し、ついには大東亜戦争をひきおこした。かれらは長州藩の暴走による成功が、万に一つの僥倖であったことを見抜くほどの智恵をもたなかった。」

「もっとも、日本人だけでなく、外国人も、武器、戦法の進歩を度外視して裸か身で戦えば日本人にとてもかなわない、という畏怖感を大なり小なりもっていた。当時、欧米の新聞でしきりとつかわれた日本語は、サムライ、ローニン、という言葉である。刀を操ること精妙で、しかも剽勇敢死、外国人と見れば狂人のごとく襲いかかる、というのがその定義であった。  攘夷  攘夷志士  というのが日本史の目から見てはたして無意味なことだったか問うか。無意味ではなかったろう。外国人は彼らを現実以上に恐怖した。これが本国の外交方針に影響を与えないはずがない。(中略)いわゆる攘夷活動が、外国人を殺傷したり、長州藩のように旧式軍隊で列強の海軍と戦うというのはそれ自体無意味だが、外国政府に対して、日本人が他のアジア人と違い異常な緊張力を持っているということだけは十分に示現した。これが、英国の歴史学者トインビーのいう「日本は、トルコ以東において西洋人に侵略されなかった唯一の国である」といういい結果にも、多少の力があったことはたしかである。」

このあたりの歴史、そしてそれがWW2にもつながるというこの見解は、しんせんなものであった。
しかし、二つ目の評を当時の志士たちが聞いたら、さぞかし激昂することだろう・・・(笑)
このほかにも、各藩で浮き彫りにされている、武士間での差別、拷問の様子は、過酷であり、このような事態は、現在では二度と起こらないようにと願っている。

さて、最後におもしろい言い回しの個所を一つ。

「長州藩は火薬庫のようなものだ。
過激藩士が、火薬庫の中で、松明をふりまわして乱舞している。
あぶない、どころではない。・・・」

・・・・・・

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日銀総裁空席
連日のニュースによってもよく知られているように、戦後初めて、

日本銀行の総裁が空席になります。

この影響が市場にどのようにあらわれるか注視したいところです。

どうしてこのような事態になったのか。まず、民主党の心理から見ていきましょう。

 民主党は、武藤総裁案否決の際にも示したように、「財政と金融の分離」を主張しています。
たしかに、世界的に見ても、中央銀行の独立性は、金融政策を行う際に非常に重要な意味を持って
います。この主張は、この点だけ見れば、正しいものと言えるでしょう。

しかし、世界に目を向ければ、財務省出身者で、名総裁と言われた方が何人もいらっしゃるようです。
つまり、「財務省出身者」というだけで、総裁になる権利を失わけるのは、人材の活用などの面からみても、いかがなものかということもできます。財務省出身者でも、きちんと立場による判断ができるだろうという意見もあります。(僕自身は、この意見は少し甘いと思います。長年過ごしてきたところの習慣に、人間というのは、慣れてしまい、それが普通になるものなのです。)
さらに言えば、サブプライムローン問題とその波及で大変な時に、日銀総裁空席は、内外に多大な影響を与えることになるため、多少意見は違っても、通すべきだという意見もあるようです。(これについても、この意見を通して、民主党議員にも関わらず、田波総裁案に反対しなかった議員がいるようです。僕は、政治取引か何かをして、結局民主党も賛成してしまうのではないかと思っていましたが、一応政権を目指す党としての自覚を持ち、その資格は保ったようです。)


逆に、自民党の心理から見ていきましょう。
我々国民から見ていて、最大の謎は、福田総理が、なぜそこまで財務省出身者にこだわるのかというところです。民主党は総裁が財務省出身者(特に次官)なら受け入れがたいと言っていたにもかかわらず、どうしてこうした人事を提示したのかということです。

これには、二つ理由があるようです。
ひとつは、歴代の日銀総裁の出自。大蔵→日銀→大蔵→日銀と、順番になっていたのです。そして、今回は、財務省の番。福田総理は、あの性格からして、こうした慣習を壊すのがいやだっただろうし、財務省もつぎはうちという気になっているから、余計に変えがたかった。
いまひとつは、ねじれ国会と政府ー省の関係。万一、日銀総裁に非財務省出身者を提示して、通った場合、財務省に政権がそっぽを向かれてしまう可能性がある。そうなれば、民主党とのねじれ国会でヒーヒー言ってるのに、自分の手足ともいうべき省庁まで動かなくなっては、ハッキリ言って、政権におさまっていることのほうがおかしくなる。
こうした背景があるようなんですね。

何にせよ、今、日本の円は、世界的に見て、魅力が失われつつあります。そこにこうした事態が起こると、日本への信用が大きく落ちてしまうのは間違いないでしょう。
「金融で、落ちぶれつつもキラリと輝く国」、日本の実現は、かなり遠くなったと思います。

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司馬遼太郎 『竜馬がゆく 三』
以前から紹介している『竜馬がゆく』第三巻です。

今まで昼行燈していた、竜馬が、いよいよ自らの思想の下に、

勝海舟、某藩藩主などの後押しも得て、日本全国を走り回ります。


追跡者
寺田屋騒動
流転
生麦事件
勝海舟
伯楽
嵐の前
海へ
京の春

この巻で興味深かったのが、神州思想。日本は神に守られた土地で、異国人が入るとけがれるというもの。今から考えると、信じられないような考え方だが、当時は、水戸学によって、知識人・教養人には常識的な考え方だった。
それはそうとして、その考え方は、当時の武士に多く受け入れられていた。
司馬遼太郎は、その思想が、いったんは、明治維新の途上はねつけられてしまった。しかし、その思想が、息をひそめてのこり、第二次世界大戦の契機となる思想へと結びついたという。この見方には、正直驚いたが、なるほど、そうかもしれないと考えた。どれほど直接的なものかは疑問だが、何かしら関係はあったのかもしれない。

このほかにも、さまざまな箇所で、面白い「挿入」がなされており、一つ一つ取り上げてられない。

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とっぴょうしもなく?さらなる発展に向けて
自分では、アニメについて、そんなに詳しいほうだとは思わないのですが。

アニメ界も、最近は商業化の波が激しいのか、アニメーター・声優・脚本家などに

個性が足りなくなってきているのか(BY肝付兼太)。詳しいことはよくわからない。

しかし、最近のアニメで、見ていて勉強になると思うようなものが

ほんとに少なくなってきているのは事実。

「ジャパニメーション」とか言ってマスコミは浮かれているが、

アニメ業界では、必死なのではないだろうか。

ある人は、なんとか売れるものを作ろうと必死であり、

またある人は、日本のアニメ業界が袋小路に迷い込まんとしているのを憂う。

これを解決するのは、なんだろうか?やはり日本としての特徴であろう。

アニメはツールであり、何を伝えるかが重要。

完全に、書きたいこととはずれてしまったが、

以前から、「興味深い」「人間味のある」とおもっていたアニメを二つ。

ひとつ。「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX

この作品は、時勢にあった社会問題をテーマに、描かれている。
薬害問題、難民問題、(外交問題)、少子高齢化問題、、、、
こうした問題を背景に、物語は進行する。
攻殻機動隊トップの「荒巻大輔」の言動はしびれるものがある。
この作品は、知ってる人も多いであろうし、言わずもがなかも知れない。
この作品は、完結したのかは?なのですが、もししていないなら、もうそろそろ新作の発表があってもいいころでは?

もうひとつ。「機動警察パトレイバー(初期) OVA ?二課の一番長い日?」
これは、前者ほど有名ではありません。とくに、第五話・第六話が面白いと思います。
話は、自衛隊、一部分子の決起。首謀者いわく、20年かけてなされたクーデター。
そこのところの詳細さは、前者の攻殻機動隊に劣るものの、
人間ドラマとして、素晴らしいと思う。
この作品は、EDのクーデター首謀者の「笑顔」(?)だけでも見る価値があると思う。
僕は、実はEDが一番好き。

別に、みんな分かっていることと思うが、べつにアニメは、お子様用とか、・・・など今主流のものだけである必要は全くない。むしろ、文学がそうであったように、現実を描き、現実と密接にリンクした場所での創作活動をしてほしい。先に紹介した、攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEXの脚本家は東大出身らしい。アニメ界にも頭脳は必要で、それは、創作力のある人に備わっているのが最もよいが、創作力のある人のそばにそうした人がもっとあらわれるように、願っている。

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【日経連動コラム3】21世紀と文明?危機を超えて by 青木保? 2/2
圏域の拡大と限界
現在、いくつの文明が存在し、いままでにいくつの文明が滅んできたのかは、論者によってさまざまである。しかし、死滅した文明は、いまでは多く世界文化遺産として往時の姿を留めているため、我々は目にすることができる。
トインビーは、現存する文明を西洋キリスト教文明、ギリシャ正教的キリスト教文明、イスラム文明、ヒンズー・インド文明、中国文明としている。これらの文明が存在する位置を見てもらえばよいくわかるが、文明は、確かにさまざまな形で拡大はするが、別の巨大な文明と遭遇した時点で拡大は停止する。そして、栄枯盛衰。栄える時期はあるが、必ず滅びてゆくのである。
21世紀、グローバル化の時代。人類全体を包括する「現代文明」の運命を考えるときを迎えている。
衝突の図式
東西冷戦終結後、世界が自由資本主義体制に覆われ、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を宣言した後、世界の政治にとって新たな紛争の種が出てきた。サミュエル・ハンチントンはこれをとって、「文明の衝突」と呼んだ。このような紛争や衝突を見ると、その背後には、冷戦下では隠れていた宗教や習慣や事物認識など文化や文明の違いが存在し、それによる対立が領土や政治・経済・社会などの問題で露わになったのだとわかる。
国際政治の変動の中で、これらの異なる文明が反西欧・反米の立場で同盟を結んだり協調したりすると世界は危機に陥る。そこで、日本の立場が重要になってくる。
福沢の視点
近代日本の文明論のなかで最も重要かつ優れたものは『文明論之概略』(福沢諭吉)である。
福沢は、「文明論とは、人の精神発達の議論なり」とし「天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体を論ずるものなり」という。また、文明とは開かれた創造性を尊び進歩へ旧慣に構わず邁進でき、虚よりも実を重んじるものとし、この域に達しているのは西洋諸国だけであるとした。しかし、それは相対的な観点であって、戦争や「外交交際」の堪えない西洋はまだ最高の域には達していないと考えていた。つまり、近代日本が文明国になるためには、文明として完全ではないが現実に存在する達成目標として、西洋諸国をモデルにするということなのである。ここにこそ、自他を見通す視点、すなわち近代日本の国家形成への戦略的視点が明示されている。21世紀、日本人は、この書を基礎としての新たな出発を模索すべきである。
ユーラシア新時代(中央公論2003年3月号に同様の論文あり)
旧大陸(ユーラシア大陸)は新たな勢力均衡の時代に入った。よく思い出していただきたい。それは、中国とインドの経済発展、EUの拡大、ロシアの復活への努力、中東の資源拡大などがみられるこの大陸の、ダイナミックな変動に起因する。
証券・金融業界は、新世紀の経済大国としてBRICsを挙げた。しかし、彼らがあまり触れていないのは、この新たな大国の興隆が、実は古い文明の再生だという点である。先の例では、中国、インド、中東は輝かしい古代文明の誇りを抱き、ロシアは明らかに帝政ロシアの栄光を意識、EUも古のローマ帝国の版図の復活さえ感じさせる勢いである。
こうしたユーラシア大陸の巨大文明の新たな復活という現実を詳細に観察して冷静に勢力分析を行い戦略的な対応をとることが、今の日本に求められている最大の課題である。
日本の自覚と実践
現代文明を考えるにあたって、多くの文明が存在していること、そして21世紀はグローバル化の時代であって、地球の抱えるグローバルな問題は、全人類が一致協力して、その解決にあたらなければいけないという2つの視点を持つべきである。
自覚的・意識的に自文明をとらえてきたのは「西欧・アメリカ文明」くらいで、他の文明にはそのようなところはない。ゆえに、「東アジア共同体」構想にも「文明意識が欠けている」という本質的問題があった。しかし、21世紀においては、日本人ははっきりと「日本文明」を意識して福沢諭吉が説いたような「文明」の理想状態へ達する努力を重ねながら、全体文明がはらむ危機を解決するために全力を尽くすべきである。

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司馬遼太郎  『竜馬がゆく ニ』
司馬遼太郎による、幕末の動乱を描く、竜馬がゆくの第2巻。

剣術にばかり磨きをかけていた、竜馬が、いよいよ自らの理想をもち、脱藩を決意します。

竜馬の話もさることながら、話の途中に出てくる筆者の挿入部分もなかなかいい味出してますよ。

若者たち
旅と剣
京日記
風雲前夜
待宵月
頑固家老
萩へ
希望
土佐の風雲
脱藩


この巻を読んでいて気付いたのが、江戸時代の「約束事」というか「決まりごと」の多さ。江戸時代に生きていた人は、現代の人と変わらない生活を送っていたのだと思う。もちろんそこには、現代の文明と江戸時代の文明による環境の差異はあるが、基本的にはそうした環境を用いて、それらに適応して生きていたというのはこの本からも、他の本からもよくわかる。つまり、江戸時代の人は、普通に想像するよりも、「自由」な心を持っていたのだとわかる。
しかし、そこには身分制度(これには士農工商だけでなく、藩の武士の中の階級もあった)をはじめ、諸手続など、あまりにも多くの規制があった。これは、真面目な徳川家康の残した、偉業という向きもなくはないが、人々は、心の底では、もっと大きな自由を求めていたのではないか。
たしかに、「徳川時代」は偉業たが、それは、基本的に、それを築いた徳川家康とその周辺の功績であって、その後の子孫は、時代の進化に対して、ほとんど無力なほどの改革しかしてこなかった。その反動こそが、明治という時代を一気に形作る原動力となったのではないか。
 それと、これは司馬の書き方によるものかもしれないが、江戸の末期になっても、「関ヶ原の恨み」を持っているというのは、よく考えれば、当然だか驚いた。また、島津と毛利は、幕府に恨みこそあれ、恩はないというのもまた、新鮮であった。
司馬遼太郎  『竜馬がゆく 一』
今回は、あまりに有名な、『竜馬がゆく』を読みました。バイト先の上司の方に勧められて読み始めましたが、諸手をあげて「おもしろい」とはいいませんが、いままで読んだ本の中でも、群を抜いて読みやすく、その言葉づかいもまた、巧みで、読んでいて、司馬遼太郎という人に親しみを感じた。

坂本竜馬という人については、もうすでによく知ってしまっているし、先入観もある。しかし、剣豪であったという事実や、父の死に大いに嘆いたというのは、全く知らなかったことであり、彼の意外な一面を見た気がした。

特に気に入った場面。
「二十歳」における、桂小五郎と初めて出会った場面。
彼らはここで、憂国し、二人で「やろう」と誓った場面。そこを引用してみる。

 (桂)「・・・失礼ながら土佐も眠っていますな。」
(竜馬)「眠っちょりませぬ。」
 「ほほう」
 「この坂本竜馬だけは、たったいま眼をさまされた。もっとも眼をさましてもなにも見えちょりませぬ。しかしわしの眼もいずれみえるじゃろ」
 「坂本さん」
と、桂小五郎はいきなり竜馬の手をにぎった。小五郎は、十分に若いのだ。ふつふつとこみあげてくるものに堪えかねて、手がふるえた。
 「やろう」

 相州の山中の百姓家で竜馬と小五郎が手を握りあって、
 「やろう」
と誓いあったのは、べつに何をやろうという目的があったわけではない。何かやるには、その時勢がまだ熟していなかったし、それに二人はまだあまりにも若すぎた。


熱くなり、何かしようという気になる。ここに感動する。しかし、それは「一日にしてならず」であって、そのためには、いろいろなことをしなければならないが、それは、「当時の情熱」とは別のところで行われる。それには、遠くを見る目が必要。それは、自らの心の中にこそ必要だ。

もうひとつ。

黒船渡来いらい、江戸の中央政界や京都の論壇がどう動いているというのが、遠国土佐人の強烈な関心であった。

まあ、内容としては、たいしたことないのかもしれませんが、僕はこの一文にひかれる。横文字ではその良さは伝わりにくいかな??この書き方は、すばらしい。
竜馬の剣・試合の描写が面白いのはいうまでもない。

これを読んで感じたのは、実際思ったり感じたりしていることは、人それぞれあるが、その中には、世に出ている人よりもしっかりしたものもあろう。しかし、それについても「相手につたえて」ではなく、「相手に伝わって」なんぼなんだということ。

とはいえ、ここまで書いているということは、この小説に惹かれているということ。
ただ、世間の人と同じように、いいものをいいというのが癪に触るだけかもしれない(^^ゞ

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「競争」と「自由競争市場」を唱える人へ・・・
最近は、意見を書くことが、めっきり少なくなってしまったと感じ、少し書いてみます。

今日、サンデープロジェクトで、何人かの学者・政治家・サラリーマンらが日本の農業についてかたっていましたが、その中でのワタミ社長渡邉美樹氏の発言。

「農業を産業と認め、競争概念を持ち込むべきだ」

これには、ほとほとまいります。
ビジネスマンやなんかを自称している人は特にそうですが、いつも「競争」、「競争」・・・
それで、何か不都合があると、「それは、自由競争市場になっていないからですよ?」とか言うんですよね。

僕は、競争自体は、全面否定するものではありません。より産業を発展させるためには、競争は重要なきっかけになるでしょうし、かつて、「苗木野そら」がめざした「競争のないステージ」は結局、彼女の当初望んだ結果にはなりませんでした。「競争は避けられないもの」なのです。それどころか、今の地に安住する人間に対しては、どんどん競争状態においてゆくべきとも思います。やはり官僚は、国を憂いて必死に働いているというより、安住しているという人のほうが多くなっているような気がします。
つまり、競争は停滞している道を活性化させるといったような効用があるのは紛れもない事実なのです。しかし、そこには必ず「閉塞感」というものが付きまとうと思うのです。一生競争の世界に身を置いておかなければいけないのなら、それは息がつまります。だから人はいわゆる「癒し」や家族を求めるのでしょう。競争至上主義な人には、その人の家族にも競争を持ち込んでもらったら面白いでしょうね。何人かで争って、競争によってその人の妻(夫)を決める。それは月に何度か行われ、子供や妻(夫)もその資格をめぐって競争する。そして、敗者はただ、排除される・・・。少し、口が悪くなってしまいました・・・m(ーー)m
話をもどして、競争は、いつも前を向いている人にとっては素晴らしい制度でしょうが、いつも必死に働きながら、報われない人にとっては、迷惑千万なのだろうと思うのです。いかなる職に就く人にも、その道を貫こうと思うなら、甘えは許されません。それはどんな人でもそうでしょう。しかし、それ=競争ということにはならないのではないでしょうか。
市場主義とは、選択肢であるべきです。市場主義のもとに産業があったり、日本があったり、歴史があったりするのではないのです。そこのところをよく考えないと、道を踏み誤る。世界の潮流は「科学」の進化よりも進歩を選ぼうとしているのです。経済学だけが、この可能性を考慮しないのは危険です。だからと言って、何をしろとかいうものでは、残念ながら、ありません。しかし、基本的には、世の中をよく見て政治すべきです。「目的を見失ってはいけない。」目的は、日本という国の興隆や企業の興隆にあるのではなく、そこにすむ人の幸福にあるべきです。短絡的に、一見人によく見える施策をしようとしてはいけません。しかし、その目的は、大きな立場に立つ人にとって、常に頭の中に、適度な位置においておかなければいけないものです。人はいつの間にか、その目的を、適距離よりも近い所や遠い所に持ってきてしまいがちです。近くても、遠くてもダメなのです。

それと、自由競争市場を論じることについても、ひとつ。
僕が、上で述べたことは、大いに「理想主義的」なことかもしれません。それは、僕自身に対案のないことが物語っています。しかし、この「自由競争市場」というのも、聞こえは良いですが、単なる「理想主義的思考」にすぎません。エコノミストに問うてみたい。あなたは、今までに、自由競争市場の世の中を見たことがりますか?かつてありましたか?これから、実現する確率は何%くらいですか?
そう、自由競争市場とは、経済学におけるファースト・アプローチとして登場したものであって、悪く言えば、それだけのものにすぎないのです。

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【日経連動コラム2】 21世紀と文明?危機を超えて by 青木保? 1/2
文明論が活発になるのは、何らかの全体的な危機感や崩壊感が強く重く感じられる時代である。
21世紀の今日また、、文明論が問題にされるのは、現代がそれこそ人類世界全体が崩壊の途をたどりはじめたとの危機意識を持ちつつあるからではないか。
こうした観点から文明というものを考えるとき、過去の偉人達は、次のような考えを表明している。
◆ヴァレリーと欧州
1919年、フランスの思想家ヴァレリーは、WW?の惨禍を目の当たりにし、多くの文明が偉大な発明や発見を成し遂げたにもかかわらず消滅してしまったことを想起しつつつ、ヨーロッパの、その達成した文明の高さが偶然によって死滅するかもしれないと考えた。
◆シュンペグラーと「西洋の没落」
ドイツの哲学者、シュンペグラーは、『西洋の没落』という歴史的名著を記し、「没落」という観念を提示した。彼の「没落」観は、文明とは文化の発展の最終形態であり、文化が成長してやがておのずと死を迎える、外的で最も人工的な状態であり、終結である、というものだ。彼は、歴史と文化を有機的な生命体としてとらえ、世界史をそうした観点から考察して得た知見に基づき未来を予見している。
世界都市的な(即物的ともいえる)文明ができることで人間の魂の形成力(練磨力)はかえって失せ、非宗教的、非倫理的で実用的な傾向が加速され、民族体は解体して無形式の大衆となり、無機的で世界主義的になる。そして、終末を迎える・・・。
彼が喝破したこのプロセスは、現在のグローバリゼーションにおける物理的・精神的な類似性を想起させる。
◆トインビー、試練と統合推進
「文明」は必ず崩壊し消滅する運命をたどってきた。トインビーは彼の著書『歴史の研究』や『試練に立つ文明』において、現代を論じ、警鐘を鳴らしている。彼は、シュペングラーとは異なり、「没落」を回避できる道を探り続けている。彼はまず、「歴史は繰り返す」と看破し、滅亡の道を繰り返さないための選択の自由は人間にあると主張している。その上で、彼は西洋文明存続の条件を3つ挙げている。一つ、政治的統合を推し進めて国会や地域を超えた世界政府をつくること。一つ、経済的には、自由主義と社会主義との間の現実的妥協案を見出すこと。一つ、精神世界について、あまりに世俗化した精神を再び宗教的基盤の上に引き戻すこと。
WW?の後、彼は、東西冷戦の予兆の中で、西洋文明に対する危機感を感じ、政治的統合の必要性を主張した。また、人間における知力と心情の分裂が、精神の破壊をもたらすとの考えのもと、それを救うのは、宗教による救済であると主張したのである。
こうした考えは、現在のEUの統合の通奏低音を形成することになる。

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高杉良  小説・日本興行銀行 第一部
日本興行銀行の頭取であった、中山素平を(一応の)主人公として、

同行の歩みにスポットをあてた小説。


目次
第一章 日銀特融
第二章 総裁の辞任
第三章 再建への険しい道
第四章 四十五日の総裁
第五章 GHQとの難交渉

事実を記すことを主としているというよりも、そこで行われる人間ドラマを主としておもしろみを追求している。先の城山三郎『落日燃ゆ』の語りが気持よかっただけに、比較してしまう。この点に、少し不満はあるが、何度も来る難局を興銀の総力をあげて乗り越えていくのは、ハラハラする。

クライマックスの一つは、山一證券の経営難を救うために、大蔵大臣田中角栄や同省官僚、日銀、主力三銀行の頭取が集まって、対策を協議した、『氷川会談』である。ここでは、日銀法第二十五条の発動が決定され、山一証券に特別融資が決定した。

いまひとつは、栗栖興銀総裁が、芦田均に説得されて、わずか就任四十五日にして、大蔵大臣となったこと。特に最後の河上前総裁と芦田均との会談は、迫力がある。

GHQとの難交渉。これは、第一部で、少しの光明はみえたものの、これは次巻へ持ち越されると思う。

政治的、経済的な動きの後ろには、人の動きがあること、よくわかりました。
今起こっている事件の裏に、いかなる人の動きがあるのか…

小説 日本興業銀行〈第1部〉 (講談社文庫)小説 日本興業銀行〈第1部〉 (講談社文庫)
(1990/10)
高杉 良

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城山三郎  落日燃ゆ
本書を手に取ろうと思ったきっかけは、城山三郎氏の死去が最も大きな要因だろう。
図書館に行って借りて、何度かの中断を経て、約三週間ほどかけて読んだ。
ある友人の、「知的体力の低下」には、耳が痛い。

ここの感想は、本書に示されたことをそのまま受け取って感じたこと。筆者の見方や考え方に偏りが(もし仮にあったとしても)それには関心を払わない。また、この本については、記憶が比較的鮮明で、各所について、感想を持っているが、主要な部分、特に感じた箇所を二か所ばかり、ここに記そうと思う。

広田弘毅の青年時代、壮年時代。ともにまじめな彼として、順調な人生を歩んでいたと思う。
しかし、壮年時代の後半、上司の山座円次郎、親友の平田、息子の広田忠雄、母のタケらの死が、彼の人生に大きな影を落としたように思える。特に、前の二人は、仕事上で自らの意見を本音で話せる、よき理解者であっただけに、そういう人を失ったことは、大きなショックを与えたのだと思う。このことが、広田の(生き方としての)人生を大きく変え、一般的には消極的と見えるような性格にしたのではないか。「人」の重要性を改めて、思い知った気がする。

この国の戦争が、際限なく拡大していってしまった背景について。日本が、戦争に突入していってしまった背景について、本書は詳しく述べているが、これに対し、関東軍らに対して、その考え方にどうしても理解できない。しかし、僕の安易な批判は、的を得ていないと思う。それは、彼らは、僕よりも明らかに頭はよく、国のことを思っていたからだ。それは、置いておいたとして、僕は、上述の理由について、背景にあるのは『空気』だと考える。関東軍や国内の軍の若兵の空気、イケイケの国民の空気、政界上層部にある混沌とした空気。これは、つまり、『責任の不在』を意味する。文官が国の方針を決定しても、それが軍に伝わらない。軍が暴走しても、明確には罰せられない。ここに原因がある。

「軍部大臣現役武官制」の復活の場面。ここからは、当時の軍部に対する認識についての差異が感じられた。僕は、この制度を軍暴走の「ブラックボックス」にしてしまっていたようだ。

広田はA級戦犯として裁かれた。彼には、(文官の代表として)この戦争の責任を引き受けるという、信念に似たようなものがあった。だから、「自己弁護のための供述を拒んだ」のであろう。妻・静子の死の場面には、心を動かされた。
東京裁判については、いろいろな意見があるようだが、それらもひっくるめて、受け入れるべきだと僕は、思う。戦争の責任を背負ってしんでいって人たちのことを考えると、そうすべきだと思う。戦争の日本は、「現実に」『あった』のだということを感じさせてくれた。感謝の念を、心にとめていようと思う。
落日燃ゆ落日燃ゆ
(2002/03)
城山 三郎

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ナフザンス法定大学教授(不穏分子因果論)



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