トクマ亭?読書・社会科学・・・
このブログは、僕が読んだ本の感想をはじめとして、社会科学について、現代の政治や経済についての意見等を書いていくつもりです。日記に関する意見などは、どんどんコメントしてください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ニッポンの教養
昨日の夜、NHKで『爆笑問題のニッポンの教養(爆笑問題×慶応義塾)』って言う番組が放送されていました。

爆笑問題が、慶応義塾大学にいって、その教授やその生徒らと討論するという番組です。

さて、感想ですが、示唆的で非常に面白かったと思います。

主にしゃべっているのは爆笑問題の太田光ですが、彼の話す内容というか、彼の主張の観点は、なにか「坂口安吾」を思い出します。
彼らの主張は「アルファベット平面」の『S』でも『T』でも、さらには『O』でもなく、「カタカナ平面」の『オ』なんです。つまり、一般の常識(=アルファベット平面)とは違う観点から、主張をしているのです。人は多かれ少なかれ、世の中に、世間に、縛られているものですが、彼らの主張は、その世間によって作られた>「垣根」をとっぱらった発想に基づき、発言するのです。それは、彼らが常識や世間といったものから自由であることをあらわしますが、しかし、それゆえに世間を「息苦しい」と思ったり、「取っ払いたい」とおもったり、もしくは、それやえに「世間から白い目で見られてしまう」ことも多いのではないかと思う。

その点で、僕はぜひ阿部謹也×爆笑問題をみたかった。阿部謹也は「世間」というものを研究対象にしており、それに関する本も何冊か出版している。教育に関しても、太田の主張する、「学際的な教育」を主張しているものの一人である。こういう点で、太田と阿部は気が合ったのではないかとおもう。太田ははっきりとは言わなかったが、太田が疑問におもい、対決しようとしているのは、ほかならぬ「世間」だとおもうからだ。しかし、阿部謹也はもうなくなっているため、それもかなわなくなった。残念というほかない。

同番組を見ていて他に思ったのは、インドと中国だ。僕は(日本史派だったので、)両国の歴史についてはよく知らないし、その文化的背景についてもよくわからないので、なんともいえないが、あの映像、インド人の学生がキャンパスの教室で、いっぱいいっぱいにすわり、誰一人下を向いたり、そっぽを向いたりすることなく(ほんとに誰一人!!)、本気の目で真正面(黒板)のほうを向いている姿を(一瞬だが)見てみると、「すごい」とか言うよりも、「恐怖」を感じた。TVで恐怖を感じたのはこれが初めてではないか!?

と、まあいろいろなことを感じさせてくれた番組なのだが、最後に、結果的に感じたのは、

『やっぱり、学問はおもしろい!!』

ということだ。普通に遊ぶのもいいと思う(それを否定すべきではないし、否定すべきではないことを自らに課している)が、学問をやることは、普段の生活自体が面白くなることなのではないかとおもう。外国人と話しては、その文化的背景の違いにおもしろみをみつけ、草木をみては、その生育過程や緑の大切さを思う。それもまた、いい生き方のひとつではないか?
スポンサーサイト

テーマ:雑記 - ジャンル:日記

名月に思うこと
先昨日、仲秋の名月mangetu

でしたねぇ・・・

を見るとよく思うことがある・・・
ちょっと古文の世界に入ってもらうと・・・

吉田兼好(兼好法師)「花は盛りに、は隈なきをのみ望むものかは」

(大意)花(主に桜のこと)をみるのは満開の時期だけ、を見るのは雲のかからぬ満の時期だけを望むものだろうか、いやそんなことはないだろう・・・。

つまり、桜であれば花の散り際、であれば雲のかかってた状態こそ趣きがあってよいという考え方です。


本居宣長(←たぶん)「みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬ を歎きたるなれ」

(大意)みな、花は満開の時期のをおだやかに見たく、月は雲がかかっていないことを思う心がすばらしいからこそ、そのようにありえないことを嘆くのだ。

ちょっと訳がわかりにくいかもしれませんが、つまり、人はやっぱり満開の桜を見たくて、雲のかかっていない月を見たいはずだ、といっているのです。

 
昔の日本の偉人二人が違うことを言っているのですが(本居宣長のは「兼好法師が詞のあげつらひ」(「玉勝間」内)というタイトルの文章にあります 笑)、いったいどちらの言うことに分があるのだろう・・・美しいと思うだろう・・・

と、おもうわけです。僕は、今のところ兼好法師に賛成で、適度に雲のかかった月が美しいと思いますが。


おとついは「兼好法師の月」、昨日は「本居宣長の月」でした(僕の住んでいる地域では)。皆さんは、どちらの月がいいと思われますか?


テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記

「教養」とはなにか 阿部謹也
さっそく書評です。

元一橋大学学長の阿部謹也による、「世間」や「公共性」の観点から教養を述べた本。

序章   建前と本音
第1章  公共性としての「世間」
第2章 「世間」の中でいかに生きるか
第3章  個人のいない社会
終章  「世間」と教養

    *       *       *

本書には、各所に具体例としての話が挿入されており、それは面白いものだった。「吉茂遺訓」「けいこう(魏の末の中国人。)」の話、「アイルランドサガ」の話。「けいこう」の話は難しかったが、他は興味深くもあり、面白くもあった。しかし、それらの話が、「世間」と関係しており、さらに「世間」との関係で「教養」と関係している、というのでは関係が遠すぎるのではないかと思った。

筆者の主張は次の二つの引用にまとめられるだろう。
「彼(サン=ヴィクトルのフーゴー)は他の人々の中でのみ教養人たりうるのであって、集団的教養の中でのみ教養人になれるのである。個人の教養と集団の教養はそのような教養人が生まれて初めて一致するのであって、それはおそらく『世間』という枠が対象化されたとき、初めて生まれる可能性が出てくる」

「教養があるということは最終的には、このような『世間』のなかで『世間』を変えていく位置にたち、なんらかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことのできる人のことをいう。これまでの教養は個人単位であり、個人が自己の完成を願うという形になっていた。しかし、『世間』の中では個人一人の完成はありえないのである。個人は学を修め、社会の中での自己の位置を知り、その上で『世間』の中で自分の役割を持たなければならないのである。そのときはじめてフーゴーの言う靴直しや陶工として働くことができるのであろう。」

読了して感じたのは本書が「続・『世間』とは何か」的な色彩が強いことである。だから、「教養」について長々と述べている本を求めている人には少し期待はずれかもしれない。しかし、各所で見せる筆者の見識の深さには驚嘆するものがあり、それだけでも一読の価値はあるのではないか。最後の引用は、私がもっとも「ハッ」とさせられた箇所である。
「シュリングによれば、『学問や芸術においても、特殊なものは普遍的なものや絶対的なものをおのれのうちに宿す限りにおいてのみ、価値を持つのである。(略)』」

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



来亭カウンター



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログランキング

ブログランキングに参加しました。あまり、制度がよくわかっていませんが、どうかひとつ、ぽちっとな。

FC2ブログランキング



プロフィール

トクマ法師

Author:トクマ法師
ナフザンス法定大学教授(不穏分子因果論)



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。