トクマ亭?読書・社会科学・・・
このブログは、僕が読んだ本の感想をはじめとして、社会科学について、現代の政治や経済についての意見等を書いていくつもりです。日記に関する意見などは、どんどんコメントしてください。
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【日経連動コラム】@ひさしぶり  「躁」の時代 「鬱」の時代
日経新聞  08年7/30(水)夕刊文化面より

作家五木寛之氏は、
日本は戦後60年の「躁の時代」を経て、「鬱の時代」を迎えたという。

1、「躁の時代」「鬱の時代」
日本の戦後を振り返ってみたい。
高度成長、万博、オリンピック、バブル崩壊、・・・数々の出来事が起こってきた。
五木氏は、この戦後を振り返り、高度成長や万博、オリンピックのような出来事がおこり、がむしゃらに働き、遊び、そして大量生産大量消費するといった生活様式が普通であった時代のことを「躁の時代」としている。
そして、バブル崩壊と、「失われた10年」を経て、
日本は、「鬱の時代」に入ったというのである。

ここで、「鬱の時代」というのは、個人の病気や短期的な社会の気分ではないという。むしろ、もっと大きな社会の流れとして、「鬱の時代」を指摘しているのである。
「鬱の時代」とは、どのようなものか。五木氏は、ロハスやスローライフといった生活様式やエネルギーを消費せず限られた資源でやりくりしようというエコロジーも「鬱の様相」を呈しているという。また、それは、予防を第一にするメタボや敵が見えないテロとの戦いにも見られるという。

2、「鬱」は悪くない
広辞苑によると「鬱」=草木の茂るさま。物事の盛んなさま。 となっており、鬱というのは、本来エネルギーを表す。現代は、そうしたエネルギーが出口を失っている状態だということができる。
これをして五木氏は、「ベルクソンのいう『エラン・ヴィタール(生命の跳躍)』の抑圧された状態が、現在の社会を覆う鬱の気分だと思う。」としている。
そして、こうした鬱の時代を生きるには、そうした時代に適した政治や経済学が必要という。

『自分の欲求を外に向かって吐き出し、外面社会の充実をはかるのが躁の時代だとすれば、鬱の時代は人間の魂の奥への踏査、冒険がなされるべき時代だろう。』

3、「下山の美学」
以上のように、現在の日本を分析したうえで、次のように主張する。
登山は上るだけでなく、下りることで完結する。
今まで我々は上る技術ばかり磨いてきたが、これからはゆっくり時間をかけて下りる文化を磨けばいい。
成熟した文化だけがもちうる制動のよさを身につけたい。加速が文化であるのと同じく減速もカルチャーである。




日本の現在を本当に的確に、指摘したもので、さすがと思うほかない。
1、2、で示したことについては、僕もまったくもって、同じ考えである。
現在、日本は、(世界がどうかはさておき)どう考えても、いわゆる「躁の時代」ではない。その転換期は、僕は(ちゃんと生きていたわけではないのでわからないが)感覚的に70年代のニクソンショック、第1次・第2次石油危機を迎えた後の「低成長期」からだと考えるが、これはよくわからなし、瑣末な問題だと思う。しかし、躁から鬱に時代が移った大きな要素の一つに「経済」「景気」というものはあると思う。景気がよく、成長することが分かっているから、人々は安心して(?)お金を使うことができたのではないか。そして、そうした空気こそが、「躁の時代」を形作っていたのではないかとおもう。

そして、転換期を経て、「絶対の成長」「明日があるさ」が通用しなくなった。そうしたとき、人々は、外を見るのをやめて、内をみるようになった。それが「鬱の時代」だと思う。

五木氏は、そうした「鬱の時代」を積極的にとらえ、「下山の美学」を唱えたのだろうと思う。
成熟した文化もいつかは終わりを迎える。そうした意味で「下山」という語を用いられたのか、他の含意があるのかもしれない。しかし、私には、この言葉を聞くと、どうも日本はこれから衰退していくしかないんですよ、と言われているように聞こえる。衰退し行くのはわかってるんですから、せめて潔く(いさぎよく)、有終の美を飾りませんか、と言われているように感じる。

現状認識は、五木氏の見識に舌を巻くものであるが、この結論には、賛同しがたい。
私は、日本をはじめ成熟した世界では、「こころ」というものに焦点があたってきていると感じる。犯罪も精神的なものが関係してきているし、医学も肉体的な技術進化から精神的なケアへと進化している。人々が求めるものも、生活を豊かにする物質的なものから、自らの精神を豊かにし、もしくは自らの精神を守るためのものが多くなっている。こうした方向性は、今後も続くように感じる。
ただ、しかし、だからこそ、日本の文化は終わっていないと思うし、日本の社会は「こころ」というものを受け入れ、かつそれをバネにして伸びてゆく社会になっていくべきだと思う。

本当に、これからの先進社会は「こころ」を静かに見るような、ある意味穏やか、ある意味退屈な社会になっていくと考えられるだろうか。そうはならない。そうなってはいけない。成長の付随した「こころ」の社会を目指してゆくべきだと思う。そのためには、「進化」ではなく「進歩」を合言葉とすべきだ。

その例として、たとえば、医学。現在のままでは、医学の精神へのアプローチとは、科学的に人の精神を決定するのは何かを考え、それをげんばでつかう。それの延々と繰り返しであろう。僕は、これを「進化」と定義する。方向性の変化のない進展のことだ。これでは、はっきりいって道は開けない。なぜなら、更なる精神学を追及するには、累進的な費用がかかる。その割に、得られるものは小さく、経済的にも、収穫逓減の法則ではないが、経済効果は薄いものとなる。そうではなくて、むしろ、精神を、「こころ」を中心に置いた医学なら、いっそ、患者を自然のただなかに連れて行ってはどうか。患者を笑いで直してみてはどうか。それは、新たな方向性をもたらすもので、僕はこれを「進歩」と定義する。そうすれば、経済的にも、フロンティアが生まれる。人は開拓を始める。人のこころは、蘇る。

こうした営みを我々は続けていくべきだと思う。この科学文明もしくは、西洋文明とでも言われるものが、そう長くは続くとは思わない。100年もすれば、大きく変わっているだろう。その終わりは、パラダイムシフトではなくて、人類滅亡なのかもしれない。「進歩」を目指すことは、そうなるのを少しでも遅らせることができるのではないかと思うのである。

KEY WORD : 「こころ」 「成長」 「進歩」

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【日経連動コラム3】21世紀と文明?危機を超えて by 青木保? 2/2
圏域の拡大と限界
現在、いくつの文明が存在し、いままでにいくつの文明が滅んできたのかは、論者によってさまざまである。しかし、死滅した文明は、いまでは多く世界文化遺産として往時の姿を留めているため、我々は目にすることができる。
トインビーは、現存する文明を西洋キリスト教文明、ギリシャ正教的キリスト教文明、イスラム文明、ヒンズー・インド文明、中国文明としている。これらの文明が存在する位置を見てもらえばよいくわかるが、文明は、確かにさまざまな形で拡大はするが、別の巨大な文明と遭遇した時点で拡大は停止する。そして、栄枯盛衰。栄える時期はあるが、必ず滅びてゆくのである。
21世紀、グローバル化の時代。人類全体を包括する「現代文明」の運命を考えるときを迎えている。
衝突の図式
東西冷戦終結後、世界が自由資本主義体制に覆われ、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を宣言した後、世界の政治にとって新たな紛争の種が出てきた。サミュエル・ハンチントンはこれをとって、「文明の衝突」と呼んだ。このような紛争や衝突を見ると、その背後には、冷戦下では隠れていた宗教や習慣や事物認識など文化や文明の違いが存在し、それによる対立が領土や政治・経済・社会などの問題で露わになったのだとわかる。
国際政治の変動の中で、これらの異なる文明が反西欧・反米の立場で同盟を結んだり協調したりすると世界は危機に陥る。そこで、日本の立場が重要になってくる。
福沢の視点
近代日本の文明論のなかで最も重要かつ優れたものは『文明論之概略』(福沢諭吉)である。
福沢は、「文明論とは、人の精神発達の議論なり」とし「天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体を論ずるものなり」という。また、文明とは開かれた創造性を尊び進歩へ旧慣に構わず邁進でき、虚よりも実を重んじるものとし、この域に達しているのは西洋諸国だけであるとした。しかし、それは相対的な観点であって、戦争や「外交交際」の堪えない西洋はまだ最高の域には達していないと考えていた。つまり、近代日本が文明国になるためには、文明として完全ではないが現実に存在する達成目標として、西洋諸国をモデルにするということなのである。ここにこそ、自他を見通す視点、すなわち近代日本の国家形成への戦略的視点が明示されている。21世紀、日本人は、この書を基礎としての新たな出発を模索すべきである。
ユーラシア新時代(中央公論2003年3月号に同様の論文あり)
旧大陸(ユーラシア大陸)は新たな勢力均衡の時代に入った。よく思い出していただきたい。それは、中国とインドの経済発展、EUの拡大、ロシアの復活への努力、中東の資源拡大などがみられるこの大陸の、ダイナミックな変動に起因する。
証券・金融業界は、新世紀の経済大国としてBRICsを挙げた。しかし、彼らがあまり触れていないのは、この新たな大国の興隆が、実は古い文明の再生だという点である。先の例では、中国、インド、中東は輝かしい古代文明の誇りを抱き、ロシアは明らかに帝政ロシアの栄光を意識、EUも古のローマ帝国の版図の復活さえ感じさせる勢いである。
こうしたユーラシア大陸の巨大文明の新たな復活という現実を詳細に観察して冷静に勢力分析を行い戦略的な対応をとることが、今の日本に求められている最大の課題である。
日本の自覚と実践
現代文明を考えるにあたって、多くの文明が存在していること、そして21世紀はグローバル化の時代であって、地球の抱えるグローバルな問題は、全人類が一致協力して、その解決にあたらなければいけないという2つの視点を持つべきである。
自覚的・意識的に自文明をとらえてきたのは「西欧・アメリカ文明」くらいで、他の文明にはそのようなところはない。ゆえに、「東アジア共同体」構想にも「文明意識が欠けている」という本質的問題があった。しかし、21世紀においては、日本人ははっきりと「日本文明」を意識して福沢諭吉が説いたような「文明」の理想状態へ達する努力を重ねながら、全体文明がはらむ危機を解決するために全力を尽くすべきである。

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【日経連動コラム2】 21世紀と文明?危機を超えて by 青木保? 1/2
文明論が活発になるのは、何らかの全体的な危機感や崩壊感が強く重く感じられる時代である。
21世紀の今日また、、文明論が問題にされるのは、現代がそれこそ人類世界全体が崩壊の途をたどりはじめたとの危機意識を持ちつつあるからではないか。
こうした観点から文明というものを考えるとき、過去の偉人達は、次のような考えを表明している。
◆ヴァレリーと欧州
1919年、フランスの思想家ヴァレリーは、WW?の惨禍を目の当たりにし、多くの文明が偉大な発明や発見を成し遂げたにもかかわらず消滅してしまったことを想起しつつつ、ヨーロッパの、その達成した文明の高さが偶然によって死滅するかもしれないと考えた。
◆シュンペグラーと「西洋の没落」
ドイツの哲学者、シュンペグラーは、『西洋の没落』という歴史的名著を記し、「没落」という観念を提示した。彼の「没落」観は、文明とは文化の発展の最終形態であり、文化が成長してやがておのずと死を迎える、外的で最も人工的な状態であり、終結である、というものだ。彼は、歴史と文化を有機的な生命体としてとらえ、世界史をそうした観点から考察して得た知見に基づき未来を予見している。
世界都市的な(即物的ともいえる)文明ができることで人間の魂の形成力(練磨力)はかえって失せ、非宗教的、非倫理的で実用的な傾向が加速され、民族体は解体して無形式の大衆となり、無機的で世界主義的になる。そして、終末を迎える・・・。
彼が喝破したこのプロセスは、現在のグローバリゼーションにおける物理的・精神的な類似性を想起させる。
◆トインビー、試練と統合推進
「文明」は必ず崩壊し消滅する運命をたどってきた。トインビーは彼の著書『歴史の研究』や『試練に立つ文明』において、現代を論じ、警鐘を鳴らしている。彼は、シュペングラーとは異なり、「没落」を回避できる道を探り続けている。彼はまず、「歴史は繰り返す」と看破し、滅亡の道を繰り返さないための選択の自由は人間にあると主張している。その上で、彼は西洋文明存続の条件を3つ挙げている。一つ、政治的統合を推し進めて国会や地域を超えた世界政府をつくること。一つ、経済的には、自由主義と社会主義との間の現実的妥協案を見出すこと。一つ、精神世界について、あまりに世俗化した精神を再び宗教的基盤の上に引き戻すこと。
WW?の後、彼は、東西冷戦の予兆の中で、西洋文明に対する危機感を感じ、政治的統合の必要性を主張した。また、人間における知力と心情の分裂が、精神の破壊をもたらすとの考えのもと、それを救うのは、宗教による救済であると主張したのである。
こうした考えは、現在のEUの統合の通奏低音を形成することになる。

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【日経連動コラム1】 国家マネー?世界に広がる影響力?
中東・アジアの政府系ファンドを中心に三百兆円に達する国家マネーが、欧米の買収ファンドに代わる金融資本の担い手に浮上している。国家の意思を映すこれらのマネーは、国際的な政治・経済力のバランスに影響を与える可能性もある。

アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビ投資庁や中国の投資ファンドが欧米金融機関に投資したことが、先日大きなニュースになったが、政府系ファンドの欧米金融機関への投資は、推計で600憶ドル(約6兆7000億円)を突破した。これまで、世界を席巻していた欧米の投資系ファンドは、その資本金を癪入金に頼っていることもあり、サブプライムローン問題による信用収縮で動きを潜めているのである。

 こうした状況において、政府系ファンドは、どのような思惑で、物事を進めているのだろうか?
ポスト石油への先行投資
産油国は、先進国からの直接投資がなかなか増えず、石油枯渇後の新産業の育成を共通の課題としている。その中で、政府系ファンドは、原油収入や貿易黒字で増え続ける資金を、「ポスト石油」を見据えた国家の経済建設計画に従って外国企業に投資するのが、その役割となっている。たとえば、UAEはF1開催によって、自動車産業誘致をもくろみ、カタールは将来の経済の柱に金融・教育・医療を据えようとしているのである。こうした新興国の国家マネーによるグローバル産業への出資は今後も続くとみられている。

 それでは、先進国は、こうした状況、また政府系ファンドをどのように見ているのだろうか?
「奇妙な蜜月」と崩れる先進国優位
先進各国は、こうした国家マネーの投資先となるだけでなく、政府系ファンドの海外拠点の誘致にも力を入れている。政府系ファンドの海外拠点に選ばれれば、巨額の運用マネーの中継点として、その国は大きな恩恵を被ることができるからだ。こうした、奇妙な蜜月が続いているが、これを少し不思議に感じる人もいるかもしれない。
 それは、07年10月19日、G7は政府系ファンドの台頭に初めて言及し、「組織構造、リスク管理、透明性、説明責任」の重要性を説いて、警戒感を示していたばかりだからだ。この警戒感は、巨大な新興国マネーが民間主導の市場経済ではなく、“国家の論理”で動き出せば、民主主義と市場原理を旨とする先進国は国際経済の主導権を握れなくなる恐れがあるからである。
 しかし、この状況が一変したのは、サブプライムローン問題が発生したときである。
 長期保有が原則の政府系ファンドによる投資は、サブプライム問題で苦しい欧米金融機関にとっては「救い手」となっている。先進国の中央銀行が果たせる役割は、限界が見えてきていることも、この感情をより強いものにしている。政府系ファンドは、「悪玉」から「善玉」へと化けてしまったのである。

以上を見てきてわかるように、現在、世界のマネーを動かしているのは、欧米のファンドではなく、新興国の政府系ファンドとなっている。つまり、「主客転倒」であり、先進国が新興国を先導する時代は終わりつつあるといえる。現在は、中東やシンガポールといった市場経済志向の強い国家マネーの動きが目立っているが、投資戦略が政治・外交政策に直結している中国・ロシアの国家マネーが出てくると、より市場は混乱するかもしれない。

政府系ファンドの躍進は、新たな投資資金を活用する好機と市場経済をゆがめるリスクの両面をはらんでいる。

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ナフザンス法定大学教授(不穏分子因果論)



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