トクマ亭?読書・社会科学・・・
このブログは、僕が読んだ本の感想をはじめとして、社会科学について、現代の政治や経済についての意見等を書いていくつもりです。日記に関する意見などは、どんどんコメントしてください。
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ヨーロッパとアメリカと日本
ヨーロッパとアメリカ、日本の考え方の違いについて、考えてみようと、最近思っているんですけど、
授業を受けて、思うところはあるんですが、いまいち、まとまらない。

この3つの地域をのみとらえることは、やはり少し遅れた見方となっているのかもしれません。
最近、高成長を実現している中国や、アジア諸国、それに、資源外交をもとに発言力を増している、
ロシアやブラジルなど、そしてアフリカ諸国。
こうした国々があり、そこを踏まえて世界を見ていかなければいけない時代、というのも確かだと思います。

しかし、この移行期において、私はまだ、ヨーロッパ、アメリカ、日本という3つの地域で世界を語ることは意味を失っていないと思うし、パラダイム変換に際して、この3地域のいずれかから、新しい発想が出てくると思うからです。
依然として、世界の大国であることには変わりないのですから。


ここで、上記3つの地域を取り上げたのは、私の経験上、その3つの地域についてしか知識がなかったからです。
ただそれだけの理由です。


さて、ここで話したいのは、ホントに3つの地域では、考え方に違いがあるってことなんですね。
印象から言うと、

・ヨーロッパは、何となく「コミュニティー」を大切にするという空気を持っている。コミュニティーの一員であるということをしっかり認識して、それを維持していくことを最初に考えているように思います。

・アメリカは、間違いなく「自由」と「独立」です。この二つを守り、この原則の中で生きれれば、それでいいって感じです。

・日本は、少し形容しがたいんですが、「建前」上は、「和をもって貴しとなす」「コミュニティー」を大切にする、です。しかし、「本音」の部分では、基本的には自分のことしか考えていない、というかなんというかそういうところがあります。

これは、たとえば、大金持ちの行動に表れていたり、祭りに表れていたり、いろんなところに顔をだしていると考えられます。ここから、具体例を書いていきたいところなんですが、全然まとまっていないんで、今日はここらへんで。
皆さんも、すこしこういう視点をもって、世界をみてみると面白いかもしれません。
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知を愛する者としての生き方
そこからもわかるとおり、「知」を求めています。

あこがれの職業は知識人、てな具合です。

しかし、それに対する、努力がついてきません。
そこのところが最も悩むところです。

私は、経済学を専攻しています。経済学は、社会科学の中でも自然科学に非常に近い分野です。
むしろ、外国では自然科学として扱われているという話も聞いたことがあります。
しかし、日本では、明治以来、つまり日本に経済学が誕生して以来、社会科学の一部として扱われてきました。
社会科学とは何か。社会科学は、人文科学と非常に密接な関係にあり、その根本を追及すると、
結局「ニンゲンとは何か」を研究している学問群だと、考えています。
そうしていくと、基本的に文学、言語学、心理学、社会学、哲学、政治学、経済学、それ以外にもある多くの学問は、中心に「ニンゲン」を置く、周辺学問群であると思うのです。
だから、経済学で追及することは、基本的には、視点が経済学なだけであって、本当に経済学を追及しようとすれば、他の視点からみると、自分の研究しようとしているものが、どのように見えるのか。それを知りたくなるはずだと思うのです。
だから、教養というのが大切になってくる。
つまり、教養とは、「位置づける」ことだと思います。
人は、自分ひとりで存在することはできません。存在とは、他者との関係のうちに成り立ちます。
ならば、学問を追及する。その姿勢にも、同じことがいえなければならない。

経済学を追及する。非常に高度な域に達することもあると思います。しかし、それだけでは、その人は専門家と名乗ることはできない。専門とは全体の一部という意味だからです。自らの研究を歴史、思想、それらのいろいろな視点から見てみる。そして、追及ではない、新たな進歩をみせる。それこそが、必要です。

このことは、以前から何度も言っている、「進化」と「進歩」の話です。
私自身があまり成長していないということかもしれません。

「べき」論ではなく、現実を。

行き詰まりを超えた、思いつきでない、思想を。
 

これが、ここしばらくの私のテーマになりそうです。


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官僚たちの夏 終了に寄せて
こういうことをしていいのかわかりませんが、日経新聞のコラム(選挙前)を丸々抜き出してみたい。



『下村治博士に学ぶ』
日本経済は今後、どのように動いていくのか。この問題を考えているときに大事なのは、「日本経済の基調とその成長力」をどう見るかである。
 日本経済の「高度成長」を予見し、池田勇人内閣の「所得倍増計画」を理論的に支えた下村治博士の著作集を久しぶりに開いてみた。「日本経済の基調と…」という表現は、博士が1959年(昭和34年)2月に書いた論文のタイトルから借りたものである。
 当時、政府は戦後復興期の終了とともに、日本経済の成長力は屈折するという考え方を基本にした「新長期経済計画」を実行に移していた。企業は、積極的に近代化投資を推し進めていたが、政府の見解は経済の成長力に適合しない過剰投資であり、国際収支悪化要因にすぎない、というものだった。
 下村さんは、この論文でこれを真っ向から批判した。企業の自由で創意あふれる設備投資こそ成長力を供給面から高める最大要因であり、日本経済は歴史的な成長期を迎えたのだ、と説いている。そのうえで、経済の動向は需要の方向によって決定されるとし、「その方向は民族の進むべき方向についての高い識見あるいはビジョンによって指導されるべきものである」と述べている。
 時代は博士の予見通りに動いた。政府はもちろん世の中の大勢は日本経済の「基調」を見間違えていたのである。
 現在はどうか。人口減少と高齢化、財政難とさらに厳しい世界同時不況で、先行き悲観論が大勢を占めている。昭和30年代初めのように、成長屈折論が言われている。本当にそうなのだろうか。
 当時のような国際収支の制約はない。企業の活力、技術革新力はどうか。
 ソローの成長会計を用いて生産要素の成長率への寄与度を簡単に試算してみた。それによると全要素生産性(経済全体の技術水準)の上昇率の寄与度が高まっており、2007年までの景気回復過程の経済成長率の70%以上が生産性の上昇で説明できるという結果がでた。 企業のイノベーションには十分期待できるわけだ。労働力の減少は生産性の上昇でカバーできる可能性が高い。問題はそれに見合う需要の方だ。下村博士は需要の勃興は「民族の進むべき方向についての高いビジョン」を指導者が打ち出せるかどうかにかかっているとみた。投票の際によく考えてみよう。


これは日経新聞の大機小機というコラムからの引用です。このコラムは、主に経済の話題についてですが、ちょっと見ない論点で、執筆者の「意見」や「見解」見ることができるので、非常にいいコラムだと思います。

後半のこの作者の話は、はっきり言ってどうでもいいです。今回は。

ここで紹介した下村治博士は、題からわかるかと思いますが、「官僚」の方でした。大蔵省に入られて、日銀の政策委員なども務められた方です。
僕にとって経済エコノミスト、もしくは官僚と聞いて一番に思い出す、人物です。
彼の偉大なところは、日本の高度経済成長を予見したという、そのことにとどまるところではないと思います。
彼は、まず経済学者として、理論を専門にした方でしたが、一流の頭脳を持っていました(こんな表現しか思いつかなかった…)。しかし、それでいて、(その発言や行動からわかるように)強い信念を持った人でした。
頭のいい人なら、東大にでも行けは今でもたくさんいるでしょう。そこに強い信念を持ち、実際に行動した。そこにこそ、彼の魅力がある。
(社会(科))学者は、その頭脳が優れていないとなることはできない。ただ、それゆえに、自らの研究や学問が一体どのような目的、いや、どのような日本を創るために役立つのか、を真剣に考え、心に持たねばならない。
そこにこそ、学者の真髄があるのであって、それの見えない学者は、たとえ有名になろうとも、たとえ高い評価をされようとも、私の私見では、学者とは言い難い。それがないものは、学者を名乗る資格はない。
長い人生、輝けるときはほんの一瞬。その時に自分の中で、最もいい輝きをするために、そして、歴史的にみて、将来的にみて、最も有用な形で、輝くために、努力を積み重ねていくべきである。そう思う。
 
 日本の官僚は優秀である。これは、世界に通用する言葉らしい。僕は、それを本当に有効に活かすべきだと思うし、そうしてほしい。議員のくだらない国会答弁を作るためにそんな能力を使ってほしくない。今の官僚に志があるのか、それは知らない。ただ、今回のことで新風が吹いたのは間違いない、と思う。これを活かしてほしい。
 藤井財務大臣。発言の端々に知的教養が感じられる。歴史をしっかり勉強しているようでもある。非常に人間的に魅力的な人だ。ああいう人の話を何時間でも聞いていたい。そういう人はままいるものではないから。
 竹中平蔵先大臣。彼のやった改革については、議論が分かれている。彼のしたことは、本当に良かったのか、本当に悪かったのか。今の私たちではなく、50年もしくは100年先の学生に聞いてみたい。教科書にはどのように描かれているか。

 

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ネットでの炎上  その是非
最近、「ネットでの炎上」ということに興味を持っています。
ニコ動とかを見ていて、実際に見ている方が、炎上にあってしまうということがあり、特に意識するようになりました。ここらで、今現在の自分の意見について、まとめたいと思います。

最近では、くさなぎさんの問題もありました。

結論から言いますと、私は最近のネットでの批判・追及についてはいきすぎがあると思います。
基本的に、ネット上での人格とリアルでの人格は別物(、分ける)と考えるべきだと思います。
ここまで言うと、いいすぎかもしれませんが、リアルで交通事故を起こそうが、盗みのようなことを起こそうが、はっきり言って、その罪の追及を受ける人はネットの人格ではなく、リアルの人格であるべきだと思うのです。

このように考える理由はいくつかあります。

基本的に、倫理的に・道徳的によくないことをしてしまったとして、その人は罪に問われる以前に、社会的に信頼を失います。それは、就職活動をしていて社会的信頼がとても大切だということは、感じたつもりです。さらに、当然のこととして、社会において、「罪」に問われます。そこでの司法の決定というものは、リアルの人間が受けるべきものです。

また、最も危惧するのは、活動に委縮感が出てしまうことです。
日本にせよ、世界にせよ、現在の世界は、成長というものを、非常に(この上なく大切な)指標としています。そうした中、拡大の期待があり、可能性・潜在的重要性(経済的だけでなく、人間の精神的世界に至るまで。)の大きな分野であるだけに、それが心配です。



※委縮について、少し、細くしたいと思います。
最近では、個人に対して責任を求めるところが増えているように感じます。こうした傾向は、一般的には望ましいものと考えますが、社会には「寛容的」「鷹揚的」であってほしいと思います。
そうした精神が必要なのは、社会がより変わっていくため、より新しいものを生み出していくため、より改善していくためです。新しいものは、既存の製品と製品、既存の思想と思想の間にあるものでした。
例えば、歌舞伎。今では、立派な日本を代表する文化とされています。しかし、最初は、歌舞伎という名前が示しているように、社会的に認められていたものでは、必ずしもありませんでした。一時は、政府というか幕府も、規制しようとしたときがあったようです。その規制の結果として、女性が歌舞伎の世界から消え、若者が歌舞伎の世界から消えたと、聞いています。法(規制)と社会とは少なくともこうした関係であってほしいと思います。こうした法と、倫理とは別の問題であるかもしれませんが。法は、社会に起こっていることに必要な修正を加えるものであって、既存の、決まった法に社会が合わせる、その範囲の中で社会は動く、というものであってはならないと思うのです。
私は、くさなぎさんの問題も同じようなものと思っています。

責任を追及すること自体は、悪いことだとは思っていません。
しかし、今後、人類が持続的に生きていく、生き延びていくためには(あえて、成長とはいいません)、こうした「行き過ぎ」というものを押さえて行かなければいけないと思ってます。
「行き過ぎ」ということで、すぐに思い出すことに、戦前の日本軍部を思い起こす人もいると思います。
それと、基本的には、同じことなのですが、戦争の場合は、日本の「システム」というところに問題があったのではないかと思っています。以前から、似たような事は書いてきたと思っていますが、ここで言っている「行き過ぎ」というのは、より人間の精神に「せまって」来るのではないか。そういう風に思うのです。だから、私は、経済の指標、会社などを図る指標として、「成長」というものを述べているのが、あまりいいこととは思いません。成長というのは、はっきり言って、きりがありません。いまは、「成長」と言っていていいかもしれないですが、じゃあ100年後は?500年後は?1000年後は?今と同様に、「成長」を目指しているとおもいますか?目指せていると思いますか?そんなことはありえないと思います。
例えば、人口成長率。いや、確かに人口成長率が低下して、企業の業績が悪くなり、いま大変な思いをしているわけですけれども(笑)。人口成長率が、1or2%あるというのは、これは、大変なことですよ。毎年、人口が増えていくということになるんですから。しかし、地球は有限なんですよね。宇宙にでも、人類が出ていかない限り、成長はいつか止まるんですよ。むしろ、止まってくれないと困ります。われわれが、本当に追及しなければいけないものが何なのかをしっかり認識しなくてはいけない。そう思うのです。
※ただ、私は、「成長」が悪い、と思ってるのではありません。それを自らに課していくことで、自らのレベルアップを志すべきだと、思いますし、自らに課しているところです。
※ついでに、上野法で述べました、「罪」のことについても、倫理的・道徳的・法律的にしてはいけないことは、してはいけないのです。絶対にしてはいけないのです。そこのところは、個々人が、しっかり認識しておく必要があります。ここで、私の論を持ってきて、モラルハザードを起こされても困りますし、そうなってはいけないと思います。

さて、最初の、ネットの話に戻しますが、
以上のような考えから、また、考えと逆じゃ?と、思う方もいるかもしれませんが、私は、ネット上で活動し、そこで、リアルでの関係に発展すること自体はよいことだと思います。悪いこととは思いません。実際に、ネットで知り合って、リアルで会って、じかに話をして、自分の世界が広がったとか、そういう人はいらっしゃいますよね?もしかしたら、そこで、結婚まで行く人もいるかもしれません。それは、いいことだと思うのです。リアルとネットを分けること、それと、リアルとネットをつなげること。その両方をしていかねばならないと思うのです。
もっと、具体的にいえば、例えば、この日記を見たとして、「昨日日記書いてたね?」と、そういう話をリアルでするのは、至極当然のこと、と思うのです。普段、自分が食べているものをmixiに写真で載せる。これから、がんばります。ただ、リアルで、ネットにアクセスしていない人のことを、ネットで話題にしてしまう。このようなことは、してはいけないことではないかと。そう思うのです。

私も、今後社会人になり、またすでに成人をしているということで、自らの行動に責任をもち、また、倫理感・道徳感といったものをしっかり持っていかなければいけません。そうした時に以上の考え方は、異常ととらえられることも多いと思います。そうした点では、改善していかなければいけないものになると思います。

今の思いとして。いまの現状を少し、見るに堪えないと思い、書いてしまいました。

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番外編
いや?

いろいろと。まあ、忙しいはずなんですが、

いろいろと、今まで、ブログに書いてたこととかかなくなると、それはそれで、

不満というか、もやもや感は、たまるもので。

別に、ブログ復活というわけじゃないんですが、(てか、ほんとに、移転するつもりです)

ちょっと、言いたいこと、書かせてほしい。


本読みたい。
こないだも、リサイクル展的なところで、古典・文学系の本を中心に、結構多くの本を手に入れてきた。
でも、あまり時間ない。そんな暇あったら、やるべきことをやるべき。

勉強もしたい。
最近、忙しいことは、忙しいけど、勉強はしてない。
それほど、大好きってことは、ないけど、やっぱり知的刺激がないと、厳しい。

ぱぁーっと、旅行でもしたい。
そう思う。いろいろと。

雨はいや。

なんか、とりとめもないことばかり書いてるけど、まだ続けてみる。


最近話題のニコ動 歌ってみた。ゲーム実況。

いろいろ熱い。でも、メリハリ大事。
それから、カラオケでもいって、ぼかろ曲歌ってみたい。むちゃくちゃだろうけど。

びしっとしましょう。

いろいろと。

ゆったり、ぼーっとは、びしっとした人の特権。


れ、れ、れ、のれ?


re:
ハタケ@疲れた男
使徒
海賊王
事務員G
・・・
みんながんばれ?




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ナフザンス法定大学教授(不穏分子因果論)



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